尾形亀之助という詩人が好きだ。誰かの文章を読んで、両手を挙げて全面的に支持したくなったのはこの人が初めてであった。亀之助は含羞の人である。含羞といっても、太宰の様にそれを前面に打ち出し過剰なサービスで読者を襲うのではない(「道化の華」のあれは女を殺してしまったことへの贖罪であり、ただ殺したという事実をそのままに書いたとんでもない甘えだと、五味康祐が書いていたことを思い出した。「太宰治 贖罪の完成」『生きるかなしみ』山田太一編 ちくま文庫)。ただ、直截な物言いを恥じ、すべての言葉を何か黄色い靄で包んでしまう。
あまりよく晴れてゐない
七月の 朝の
ぼんやりとした負け惜みが
ひとしきり私の書斎を通つて行きました――後
先の尖がつた鉛筆のシンが
私をつかまへて離さなかつた
(電話)
「モシモシ――あなたは尾形亀之助さんですか」
「いいえ ちがひます」「七月の 朝の」『色ガラスの街』
ぼんやりとした負け惜しみ。気だるい初夏の空気。梅雨は明けただろうかーー
いいな、と思った方は是非夏葉社から出ている尾形亀之助詩集『美しい街』を読んで欲しい。
ちょっと気になる、と思った方には江國香織の『ホリー・ガーデン』をお勧めする。亀之助の詩で溢れたこの小説は、生活の機微や空虚、そこに自ら引きこもることの寂しさの描写がとても印象的だった。イズムを断じて排し、ただ生活の空虚を万年床に寝そべりながら眺め続けた亀之助の詩は、決して修辞的とは言えない言葉で語られながら、時々ひどく胸を打つ。
窓を開ければ何があるのであらう
くもりガラスに夕やけが映つてゐる
「恋愛後記」『雨になる朝』
重い二日酔いからやっと醒めた夕刻、苦悩のうちに失った今日いちにちを寂しく思い、ふと漏れるはにかみ。はじめ読んだときにはこんな風に思っていたが、実際はもっと鬱屈とした詩らしい。この詩を書いた頃、既婚の亀之助は近所でスナックを営む既婚女性に惚れていた。夕方、戸を開けてあの坂道を登ればあの場所がーーでも、もう窓は開けない。夕日は容赦無く曇りガラス越しに差し込んでくる。傷心である。『ホリー・ガーデン』でこの詩は引用されていないが、主人公の果穂の内情はまさしくこれだった。窓の中に引きこもり、万年床に寝そべって(あるいは料理を作り続けたり生活の中に自らを沈めて)ひとり存在の虚ろに耐えるのである。
子供が泣いてゐると思つたのが、眼がさめると鶏の声なのであつた。
とうに朝は過ぎて、しんとした太陽が青い空に出てゐた。少しばかりの風に檜葉がゆれてゐた。大きな猫が屋根のひさしを通つて行つた。
二度目に猫が通るとき私は寝ころんでゐた。
空気銃を持つた大人が垣のそとへ来て雀をうつたがあたらなかつた。
穴のあいた靴下をはいて、旗をもつて子供が外から帰つて来た。そして、部屋の中が暗いので私の顔を冷めママたい手でなでた。「二月」『雨になる朝』
はじめ「ぼんやりとした負け惜しみ」の含羞だった生活の虚ろさ、非物語性の肯定も、やがてどこか迫力が出てくる。頬に触れる冷たい子供の手の感触、風景描写が静まり返って動かないことで強調される、無為に時間を過ごすことの緊迫感。同世代の作家であれば、例えば芥川が『歯車』でやったように不安の吐露をすることが普通であろう。何か悲劇やイデオロギーを免罪符に大仰な言葉を使うことへの羞恥心はやがて、生活の空虚を拡大し続ける袋小路へと人を誘う。この羞恥心は、イズムやイデオロギーに頼ることなく良い詩を書きたい、という高潔さの表れでもあった。
そして、林檎だとか手だとか骨だとかを眼でないところとかでみつめることのためや、月や花の中に恋しい人などを見出し得るといふ手腕でや、飯が思ふやうに口に入らぬといふ条件つきなどで今日「詩人」といふものがあることよりも、いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと伝説めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。 しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを読む人を言ふといふことになつてはみぬか。
「年越酒(抜粋)」『障子のある家』
唯、私はよい詩を作るやうになりたい。
「私と詩」『亜』28号
「飯が思ふやうに口に入らぬという条件つきなどで」というのは、左派詩人への皮肉である。ダダイストも食うにあぐねてコミュニストに転向した昭和初期、亀之助は「生きることの不可避な売春性」に抗い餓死自殺を志し、やがて不摂生が祟ったのか餓死自殺だったのか、四十三歳でこの世を去った。死因は衰弱死だった。
亀之助は傲慢で身勝手だ。既婚のくせに人妻に惚れて、叶わぬと思うや自らのうちに引きこもり、「恋愛などというしみったれた感情」などとほざく。ぼんぼん気質が抜けずにちっぽけな自尊心にしがみついて社会に迎合せず、ろくに働くことすらしなかった。挙げ句の果てには子供も妻も放置して衰弱死である。しかし、その我儘は何か大事なものを守ろうとして出たものではないだろうか。たとえそれが独りよがりな自己満足で、他人を大いに傷つけ、他所から見ればただの甘えた迷惑としか思えないようなことでも、本人は思いあぐねてそうしたのだろう。恐らくは自己の身勝手や矛盾や甘えに気づいていながらも、どうしようもなく。
自己のちっぽけな高潔さや、誰かとの間にあると勝手に信じている信頼や、そんなもののために袋小路にはまり込んでひどく身勝手になってしまう人間は時々いるだろうし、出会えば腹も立つだろう。でも、何の因果かそんな風になってしまう人間を、どうにか許してほしいと思う。そして、何かその人が大切にしようと足掻いたことを信じてほしいと思う。これも多分、ひどい甘えなんだろう、とは思いつつ。