群衆に浴みする

東京が好きだ、とこのひと月ひしひしと感じた。といっても、決して僕が都会的にファッショナブルだ、と言っている訳ではない。自分の略歴について書けば、幼年期を福井で、少年期以降をまだ商店街の元気な東京の下町で過ごした、ということになるだろう。中学校に入って一人で出かけるようになってからというもの、知らない街で多くの知らない人を横目に散歩することが自分の大きな楽しみの一つだった。

好きな本の一つに、ボードレールの散文詩集『パリの憂愁』がある。僕が持っている岩波文庫版はとうの昔に廃版になってしまったが、今でも新潮社とみすず書房から出版されているらしい。見かけた方は是非手にとってほしいと思う。個人的には少し酔っている時に読んだほうが楽しいと思う。この詩集の内に、「群衆」という一片がある。この散文詩では、都会の群衆の中に紛れる匿名性の快楽を、「群衆に浴みする」という言葉で讃えている。

群衆と孤独と。勤勉にして実り多い詩人の手になる時、互いに対であり、互に意味を交換し得る二つの言葉である。己の孤独を群衆させる術を知らない者は、せわしない群衆の中にあって最早孤独であることは出来ない。
詩人は好むままに自己みずからでありまた他人であるという、この比類ない特権を楽しむ。肉体を求めてさ迷う魂のように、望む時に、人々の人格の中へはいる。 ……た易く群衆と結婚する者は、熱狂的な快楽を知っている。 ……側を過ぎて行く未知の人に、詩であろうと慈悲であろうと、自らの全部をあげて捧げることの出来る、この魂の聖なる売淫……

僕は今、北関東のこぢんまりとした都市に住んでいる。東京から越してきてまだすぐのころ、日も落ちた夏の夜に高速バスで東京に帰る折のことである。バスが荒川を渡って隅田川沿いに首都高六号線を流れるその車窓から、あまりに多くの部屋の灯りが見えることにただただ驚愕して口がきけなくなってしまったことがあった。その記憶をぼんやりと抱えながら過ごしていたものだから、一冊三百円の古本の片隅にこの一節を見つけてとても嬉しい気持ちになったのを覚えている。都会というのは田舎の親密でパーソナルな絆よりは寧ろ自由と孤独を選んだ人たちの住むところだとすれば、その無数に広がる街の灯の一つ一つはどれも極めて個人的な物語の在り処を示すしるしのように見えた。

街よ
私はお前が好きなのだ
お前と口ひとつきかなかったようなもの足りなさを感じて帰るのは実にいやなのだ
妙に街に居にくくなっていそいで電車に飛び乗るようなことは堪えられなくさびしい
街よ
私はお前の電灯の花が一つ欲しい

「美しい街」 尾形亀之助

その灯が称える記憶の集積はどれほど巨大な熱量もつだろう。これほどばかりの熱に冒されて、当然街も段々と人々の記憶のかたちをその身体に刻み込んでゆく。人という生き物はこの「過去の人々の記憶の名残」というものに否応なく反応してしまうものらしい。僕は深い山奥の登山道を歩いている時でも、かすかに残された踏み跡や崩れかけた石積みの塔に、かの地をかつて歩いていた人々の息づかいを探してしまう。

街よ、私はお前の電灯の花が一つ欲しい

コロナ後の世界のことを考えると、自分がひどく古臭い人間になってしまいそうで気が滅入る。